昭和45年11月23日 朝の御理解
御理解 第25節
「信心は大きな信心がよい、迷い信心ではいかん、一心と定めい。」
大きな信心が良いと。大きな信心という事は、どう言う事だろうかと思う。例えば宗教の中にも沢山な宗教があります。大きな宗教と言うと、矢張り仏教とかキリスト教とかと言った様な、大きな宗教ありますですね。だから大きいと言う事ではない。中身ががらんどうであっては、いけんのですからね。迷い信心であってもいけない訳でありますね。迷い信心ではいかん。ご利益さえ受ければと、おかげさえ受ければと。所謂ご利益を焦点とした信心は、先ず迷い信心と言うてよかろうと思うですね。
おかげを受けると言う事だけが信心の全ての様に、例えば思う人が例えばあるとするならば、ね。例えばなら新興宗教辺りの様に、いろんなおかげが受けられると言うて聞きますと、すぐそちらの方へ心が動く。参ってみろかと言った様な事になる。だからここで迷い信心というのは、ご利益を目当ての信心はまず迷い信心だと、私は断定していいと思うですね。大きな信心というのは沢山な、いわば信者を擁しておるから大きな信心という事ではない。宗教の持つひとつの普遍性と言う事が言われます。
例えそれは現在の金光教などというのは、その世界の宗教という事から言いますと、、まあ大変小さい宗教だと思います。年限もね110年経ったばかりぐらいの宗教ですから、若いですね、信者の数もだから他の大宗教に比較いたしますと大変少ないね、けれどもそのね、絶対大きくなれれるとという内容です。ね、何処の誰言うなら何処の国の、どういう人種の人が頂いても、成程と合点が行く宗教でなかなきゃならない。
いわゆる先日から頂きますように、道理に合う信心でなからねばならない。ね、所謂天地の道理です。天地の道理に即応した、私は宗教じゃなからなければいけない。どんな大きかってもただご利益、利益で伸びた宗教にはそういう道理と言うですかね、道理の道理性と言う様なものがない。そこで私達金光様のご信心を頂いておってもです、果たして自分の信心は迷い信心ではないかとまず思うてみなきゃいけない。
すぐお金の事が焦点である。ね、それはある意味において、そのご利益を頂かなければならんという、その願いの中に一貫したものがあるに致したにせよです、例えばどうぞ商売大繁盛のおかげを頂かして下さいと。そして、どうぞ世のお役に立たして下さいと。ねひとつのその中に願いのその、ひとつ筋道というものが立ってるわけです。だから筋道が立っとるというだけじゃいかんです。ね。
例えば世のお役に立ちたいの一心が、願いになるという。んなら金光教じゃなくて何々教はもっとおかげが頂かれると言う事になったらですよ。やっぱ迷いが起こります。世のお役に立つためには、愈々是は金光教じゃいかん。世のお役に立っためには、〇〇教の方が、もっとすばらしいおかげを受けられると言う事になりますからね。私金光教の教風というかね。家には家の家風と言う様なものがありますように、教風というのがあります。それは勿論、教祖様のご信心の現れである。
教祖様のご信心の御性格が、私共お道の信奉者の内容に段々、言うならば似てくる。教祖様の生き方に似てくるわけです。そこに教風を成して行く訳です。教風が出けていく。ね。ですからその中にですの言わば、何ともいえぬ一つの雰囲気というか、そのいうなら、教風なら教風が私の心の中にも、家の中にもぴったりしてくるという訳です。そういうことになって参りますとね、他の宗教例えば他にあの仏様神様という、まあ例えば他の宗教がありましてもですね。いわば性に合わない他の宗教じゃ。
いわば金光教の教風の中に、私共の信心生活の全てがね。そういう金光様所謂金光教的な段々内容になっていくということ。ね。そういう風に言うならば金光教の信心が、教祖の在られ方とか。生きられ方と言った様なものが、自分達の生活の中に染み込んで来る。ね。そこには迷い信心は、所謂迷い心は起こってこないと思うですね。だからどうしても教祖の在られ方と言った様なものを身に付けて。
こんな場合こういう時教祖の神様ならどのように思いになられるだろうか、どうなされるであろうかと言った様な、いわば生き方なんですね、稽古の焦点が。大きな信心とは、ね、大きな事を願うとか、大きな信者を擁しておる信心でなからねばならんと言った様な事ではない。迷い信心ではいかぬというのは、もう迷わんで済むおかげを頂く為に、教風そのものが私共の家庭の風に潜んで来る、染み込んでこなければならん。
そこからです言わば大きな信心が生まれてくる。大きな信心とは、ね、どのような場合にあっても。行き詰まりがないという信心が大きな信心だと私は思う。ね。いかにも大きいでしょう、行き詰まりがないのですから。なんぼ進んでも、なんぼ進んでもどんな事があっても、どんな事があっても言わば行き詰まらないという信心。私は金光様のご信心というのは、そういう内容をもっておると思う。
同時にお道の信心の所謂、を持つ普遍性というものがですたい、ね、今年の早々から申しております所謂和賀心時代に突入した、と言う様な意味の事をお話しておりますね。是だったらもう、世界のどういう隅々の人にだってです、和賀心になると言う事が人間の幸せだけではなくて、その和賀心に人間の幸せは約束されるんだという生き方、そういう論理のもとにですね説かれて行くならば、世界のどういう隅々の人にでも分かる。
そういうだからその限りない普遍性というものを供えておるのが、私は金光教だとこう。ね、しかも迷わんですむ事の為に、金光教の信心が染み込む。ね。どの様な場合でもどの様な事にあたっても、決して迷いが起こらない迷わんですむ。ね。それはね宗教信仰上の、もう迷いといったのはありますよね。迷いというかまあ壁に行き当たったと言った様な場合ですね。だからそう言う所を私どもが精進してまいりよりますとですね、必ず壁は突き破る事が出けるのが、出蹴る様になっとる。
前に前進さえしていけば。そこからまた新しい視野というか、信心が展開してくる。まあ今日のこの25節の「信心は大きな信心がよい、迷い信心ではいかぬ。」と言う所をまあ今日のいわば、私の信心の見解でお話をさせて頂いたわけですね。そこでですなら一心と定めいと言う事なんです。ね、一心と定めいと言う事はです、ね、もう金光教一本に決めたと、そう言う事じゃないと私は思うですね。
一心と定めいと言う事は是はどうでもひとつ、合楽の信心というか、合楽の生き方と言った様なものをです、愈々身に付けていかなければならない。それはどう言う様な私は事かというとね、もう信心とはね結局ありがとう成らして頂く稽古なんだと言う事です。と心の中に信じ決める事です。合楽のシンボルの様にい言われますね、菊の花。ね、菊という字をもじって書きますと喜び久しいと書いてある。ね。
菊とは喜び久しいと書いてある。いつでもどんな場合でも自分の心の中にです、信心の喜びというものを絶やしてはならない。そこで私共がいつも思う事はですその喜びが薄くなったり、喜びがないと言う事。ね。そこん所にですね、ひとつの自分の信心の、ひとつの心の定規とでも申しましょうか。あっ是はおかしいぞと。信心はもう段々分かって来た、詳しゅうなって来た、おかげも段々頂いて来た。
所が最近はどうも、親先生説かれる所の信心の喜びというものがです、いや信心とはもう有難うなって行く事に極まったと言われるのに、その有り難いというものが薄らいで行きよるぞ、無くなっていきよるぞと、言う事になったらですね、是はおかしいぞと気づかせて頂いて行くというのです。一心と定めてある所はです、もう信心とは自分の心の中に和らぎ賀ぶ心というか、ね、菊の花のような心というか。
とにかくこういう中からでも、有り難いものが頂けれるんだという、有り難いを追求して行っておる、また行かなければならんと定める事が、私は一心と定めた事になると思うんです。ね。そういう風に自分の心が一心と定まった。そういう信心をです、私共が頂いていくうちに私が前半に申しましたですね。迷い信心ではいかぬ、大きな信心がよいと言った様な信心がね、その中に今日は私が申しました様な意味合いの大きな信心とか、迷い信心ではいかぬと言う様な内容がです、ね。
信心とはもう有り難うならせて頂く稽古だに尽きると。で、そこん所を追求して求めていく、その為の修行ならどんな修行でもさせて貰おう。有り難くならせて頂く事の為なら、ね、どんな辛抱でもさせて貰おうと言う事に、一心と定まる所からです、ね、その中に大きな信心、迷い信心ではいかぬというものが、入ってくるんです。その中に包含されてくる一心と定めた所から。
しかも一心と定めるというのは、今日私が申します様に、信心とは有り難うならせて頂く稽古だ。いや金光様のご信心とは、有り難うならせて頂く稽古なんだと、教祖の神様が、ね、此の方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰せられる、ね、そのおかげの尽きる事の無い、そこから始めてご利益という事になって来る。ね。喜び喜びに喜んで開けた道とも仰せられる。ね。
その喜びに喜んでという、勇みたった信心の喜びという、信心の姿勢というものがです、金光様の御信心だと定める。一心に定めるとはその事だ。その中に、ね、大きな信心が育って行く。同時にどの様な場合にあってもです、ね、どういう壁にぶつかってもです、迷いが起こらない。是はまだ私の信心が足りぬからだと、一心と信心を進めて行けばおかげが受けられると言った様な信心が、ここから生まれて来る。
金光教の信心とは、そういう内容を持っておる。ね。だからその内容をです、私共の内容として行くところの信心が、ね、どうでも必要だと。金光様の御信心を頂いておりゃ、大きな信心かと。金光様の信心頂いとりゃ迷いは起こらんか、一心と定めておる事になるかという事ではないと言う事、ね。決め手と言うところがです、ね、信心とはどこまでも有り難うならせて頂く稽古と、ね。定めるならばそこんところに一心を定めて行かなければならんと思うのです。
どうぞ。